仏教から白夜行を捉えてみる

シュガーロード(小浜島)

昨日は白夜行の第2話でしたね。個人的には
「なるほど〜」って思えるような
シーンがなかったので(もう1回見る予定
なので、そのときに気がつくかも)、
第1話で思ったことについてちょっと詳しく書いてみようかなと思います。


まず、第1話の最初のシーンですが、亮司(25歳くらいver.)が、雪穂に
向かって「行って」と指していたが、これは、第1話の最後くらいに
雪穂(小学生ver.)が駅で亮司に向かって、「行って」と指すシーンと
シンクロしてますよね。最後まで見ないと、この詳しい理由は分かり
ませんが、かなり感動的なシーンでした。
他には、ドブ川で亮司(小学生ver.)が雪穂に切り絵で雪の結晶を作って
あげたあとに、とったポーズがありますよね。
イメージ的には
「しゃきーん」
みたいな…(笑)
そのポーズを、亮司が自分の親を殺したときに、雪穂が
「心の中では何度も殺した。だから、殺したのは私だよ」
といいながら、亮司の手からハサミを抜き取り同じポーズを取りました
よね。最初に見たときはぜんぜん気がつかなかったのですが、2回目に
見たときに
「あ―――!!」
みたいな感じで、感動しまくっていました。


まあ、いま挙げたのは第1話で感動した部分に関することですが、
個人的にすごく気になった部分がありました。
それは亮司がドブ川で切りえで蓮を作って、雪穂見せたときのことです。
亮司が
「どぶに咲く花じゃなくて、泥に咲く花だと思うんだよね〜。
ハスっていうんだけどさぁ〜。お釈迦様が座ってるやつ」
みたいなことを言いますよね。個人的にはハスは池に咲いているイメージが
あるので、泥に咲くのかは知りませんが、そんなことはどうでもよくて
亮司が「お釈迦様」って言ったことがすごく気になったんです。


もしかしたら、特に意味もなく言った言葉かもしれないけど、ボクは
ドラマの中のすべてのシーンにその理由を求めたい人なので、
ボクなりに考えました。


お釈迦様は皆さんもご存知のとおり、仏教の開祖ですよね。んで、
その仏教の教えの基本は「三法院」であり、その中に「涅槃寂静
という教えがあります。
これは「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな
安らぎの境地(寂静)であるということ」
であります。
この煩悩っていうのは自らの心の問題であります。
この考えというのは仏教が他の教えと違うところで、他の宗教は
「善」「悪」という概念で物事を捉えます。しかし、仏教では
自分の心の問題だと捉えます。
自分の心が「苦」と生み出しているのです。


つまり、亮司と雪穂は、自分たちが置かれている辛い状況を
「善」「悪」という外部の要因に求めるのではなく、自分の心の
中の問題に求めたのではないかということです。
自分の心の持ちようで、この苦しさから逃れられるのではないかと…
もしそうだとすれば、それはすごく悲しい運命にあった2人なんだなあ
って個人的には感じています。


まあ、完全に個人的な推測で物事を判断してしまいましたが、このような
解釈もあるのではないかと思った次第であります。


あのときに「お釈迦様」を登場させたことに意味がないとは思えない
んですよね…


そんな考えさせられる話題を提供してくれそうな白夜行をこれからも
楽しみに見て行きたいと思います。